海を飛ぶ夢

「選択」
MAR ADENTRO / THE SEA INSIDE
2004年 スペイン

 監督・脚本 : アレハンドロ・アメナーバル
 出演 : ハビエル・バルデム / べレン・ルエダ
      ロラ・ドゥエニャス / マベル・リベラ
      セルソ・ブガーリョ / クララ・セグラ
      タマル・ノバス / フランシス・ガリード
(125分)


実在の人物ラモン・サンペドロの手記「レターズ・フロム・ヘル」を元に、
『アザーズ』のアレハンドロ・アメナーバル監督が映画化した作品。
全身麻痺の障害を負った主人公に、『夜になるまえに』のハビエル・バルデムが特殊メイクでリアルに演じる。
ゴールデン・グローブ賞最優秀外国語映画賞に輝いた壮大な心の旅路を描いた真実のドラマ。

25歳の夏にラモン・サンペドロ(ハビエル・バルデム)は、事故により首を骨折、
寝たきりの生活を送る身体になってしまう。
弁護士フリア、村の女ロサとの出会いを交えて物語は展開する・・・


海の事故で、首から下が不随となったラモン・サンペドロは、26年間をベッドの上で過ごし、その年、自ら命を絶つ決断をする。
人権支援団体で働くジェネは、ラモンの死を合法にするため、弁護士のフリアの協力を仰ぐ。
法廷へ出る準備を進め、ラモンの話を聞くうちに、フリアは強く彼に惹かれていった。
ある日フリアは、ラモンの家で発作に倒れる。
不治の病に冒されたフリアは、やがて自らも死を望み、ラモンの死を手伝う約束をする。

本作は、一生の半分をベッドの上で過ごし、自ら死を望んだ実在の人物、
ラモン・サンペドロの手記をもとに描く真実のドラマ。
今もなお、スペインでは法律で認められていない「尊厳死」をめぐり、生と死の意味を問いかける作品だ。
顔以外に動かすことが出来ないうえ、実年齢より20歳以上も年上のラモンを演じることになった。
ハビエル・バルデムは、その強い瞳と豊かな表情でラモンを演じきり、ゴヤ賞主演男優賞に輝いた。

監督のアレハンドロ・アメナーバルは、現代スペイン映画を代表する若手。
デビュー作から『アザーズ』まで、作品で死生観を問うてきたアメナーバル監督。
ゴヤ賞では監督賞・脚本賞を受賞し、アメリカ、ゴールデン・グローブ賞では外国語映画賞を受賞している。
スペイン北部、ガリシアの澄んだ海に、生きる目的や人を愛する意味、
残される家族と友人たちの思いが果てしなく飛びかう、心に残る感動作。


私は、「若手ながらスペイン屈指の監督として認められるアレハンドロ・アメナーバル」と言われたところで、
その監督が男性か女性かも知らないありさま。
アレハンドロ、だから男性?
同様に、「スペインが誇るトップ男優のハビエル・バルデム」と言われたところで、
若い20代の頃を演じていたひとは、「そっくりさんなのか?」と、思って観ていたくらいで、
特殊メイクと言われても、50代のそれなのか、もしくは、若い20代の頃を演じた時のそれなのか、
まったく検討がつかなかったくらいだ。
たぶん、若い20代の頃の髪がふさふさしてる時が、カツラのメイクなのだろうな、
ぐらいに考えていたほどなのだから・・・。
ところが、実際は逆だったなんて!
ただ、題名だけは聞き覚えがあって「優秀な賞を獲得した映画だ」という
あいまいな記憶で一応録画しておいたに過ぎない・・・。
こんなありさまだから、内容もまったく知らずに、無防備に私は観始めた私・・・


映画の冒頭、女弁護士が寝たきりの男性に、一日の生活習慣を訊いている。
朝は何時に朝食をとって・・・なんて、たわいのない話しだ。
すると、突然、「なぜ、死を選ぶの?」ときた!

はあ?
なんだよ?いきなり!
この男性、死にたがってるの?

あまりに突然だった、しかもそこから急に重たい空気に変わった。
男性(ラモン)は、海での不慮の事故で、首の骨を折り、四肢がまったく動かない。
以来26年間、お兄さんの奥さんが面倒をみている。
家族は、家長のお兄さん、その妻、年老いたお父さん、それに今どきの青年の甥。
寝たきりとはいえ、こんなに家族に大切にされているのに、男はなぜ死を望むのか?
不自由だからか?
家族に面倒をかけたくないからか?
ラモンは言う。

「自由のない人生は、人生じゃないよ」

女弁護士の差し出した手。
たった、3pしか離れていない彼女の手にすら、ラモンは触れることが出来ない。
ラモンは言う。

「僕は永遠にこの距離を埋めることが出来ない」

自殺することもできないのだ。
死にたくても死ねないのだ。
自分の意思だけでは、どうすることもできない。
誰かが、死ぬことを手伝ってくれなければ、死ぬことができないのだ。
しかし、カトリックの国では手助けは犯罪となる。
であるから、四肢が動かない人の意思を尊重し、たとえそれが死を手助けするのであっても
罪ではないということを、男は司法に認めさせたい。
しかし、その見込みのない訴訟を弁護してくれる弁護士は、なかなかいない。
その弁護をかってでたのが、フリアという女弁護士だった。
フリアもまた、病を抱えていた。歩けなくなったこともある。若年性の認知症だった。
病を通して、互いに共感しあうふたり。
フリアは「一緒に旅立ちましょう」と、ラモンと約束する。
この一言で、ラモンの死への憧れはいっそう強くなった。ラモンの書いた詩が本になったら、フリアと一緒に・・・
本が完成して、フリアが一冊目を持って現われることを待ち望むラモン。
そのことが、ラモンの生きる希望となっているかのようだ。本の完成を心待ちにするラモン。喜びに満ちた日々・・・

死ねることが、生きる希望。
皮肉なことだが、不思議に矛盾は感じない。
「尊厳死」だけが強調される。




裁判がはじまり、ラモンはマスコミにも取り上げられた。
それをテレビで観た、近くに住むロサという女性が会いにやって来た。
頻繁にやってくるロサは、フリアという信頼できる弁護士も付いているので、家族からも少々煙たがられていた。
ロサの訪問は興味本位と受け止められがちだった。
家族の中で、ラモンの死を望むものはいない。家族はラモンを失いたくない。心からラモンを愛しているのだ。
ラモンは言う。

「本当に愛してくれる人は、僕を死なせてくれる人」
「死こそが最善の道」

ラモンの意思は固い。
兄は怒る。
「弟は死なせない」と。
ラモンは考えていた。

「もし、兄さんが死んだらどうなる?」
さらにラモンは続ける。
僅かな年金で、僕の世話をする奥さんは困る、父さんだって年老いている。
「実際、どうしようもなくなるじゃないか?」

ラモンは深く考えていた。
兄はとうとう叫ぶ。
「家族全員が、おまえの犠牲になってる」と・・・。

結局、本が完成しても、フリアはやって来なかった。
ラモンは絶望する。
そんな時、ロサが・・・
ロサはラモンの元を訪れているうち、真の愛情は「生きて欲しい」と思うことから、
「死なせてあげること」と思うようになっていたのだ。
男が繰り返し、そう言ったから、ロサは感化されたのかもしれない。ロサはそんな女性だった。
果たして
本当の愛なのか?
本当の愛だと錯覚したのか?
本当の愛と思いたかったのか?
本当の愛と思われたくてなのか?

その直前、ラモンは「これでいい、28年間、ただ時間だけが過ぎた・・・」語って海を飛んだ・・・。




カトリックの神父が言うように、
「人間は体が動いて自由に駆け回るだけが、生きているというのではない」
「人間の人生の意味は動き回れなくても果たせる」
そうなのかも知れない・・・と私は思う。
確かに、それは誰かの世話になり、迷惑もかけ、犠牲を強いることになる。
でも、健全な体をもっていても、人は、ひとりでは生きていけないものだし、多かれ少なかれ、
誰かの世話になってるものだ。
寝たきりだから、本人が望むから死なせてよい、ということではない気がする。
寝たきりでも、誰かの役に立ってたり、精神的な支えになってたり、希望だったりするものだ。
そうでしょ?
私など、自由に歩けて動き回れるが、だからとって誰かの希望になってるだろうか?
生きている、ってどうあったら生きているといえるのか、それは誰が決めることだろうか?
命を全うする。
そうあって当然、とこれまで思っていたけど、この映画を観て「死を選択する」
それが最善、と考える選択肢もあるのだな、と考えさせられた。

私のこれまでの「尊厳死」のイメージは、意思表示ができなくなった植物状態の人に対して
家族など、身近な人間が「安楽死」させてあげる、という。そのようなものだった。
しかし、ここでは違う。本人が死を望んでいる。
最近では自殺、といわず「自死」という言葉を耳にするが、それに近い。
ただ、男は自分の力でそれができないから困っている。
一方で、カトリックの考え方も分からないでもない、一理あるとも思うが、
命は神からの授かり物、自殺幇助は罪と言い切るのもなんだか違う気がする。
「尊厳死」を望むことは罪だと、一刀両断できることではないと・・・。

・・・とても重くて、私には、いろんな思いだけが交錯して、うまくまとめられない。

ラモンは「尊厳がない」と言った。
確かに、自分の意思が通せない点では、「尊厳がない」といえるだろう。
生き死には本人が決めることなのか?
健全な体を持ってる人は、自分の意思どおりに死ねる。
そういった点では男の、意思が通せないもどかしさも理解できる。
触れたくても触れられない距離は永遠だという思いこそが、
男が「死を選択」する強い意志に変わったのではなかったか。
私は、人間は根本のところで、単純な生き物なのではないかと思う時がある。
食べて、寝て、話して、笑って、季節を感じながら散歩して、働いて、汗を流して、あたたかい触れ合いがあって、
時には衝突もして・・・そういう日常の生活の中で活き活きした人との交流が生まれる。

誰もが意識せずに、積極的に生きてゆける。

一方、フリアは病が進行し、自分で意思表示ができなくなってしまった。
「死の選択」は、もはや不可能だ。
自分の思考を失って生きるのと、意思表示は明確なのに体の自由がなく生きるのと・・・

生きるとはなんだ?
生きているという証はどこにあるのか?

ラモンは若い頃、船乗りとして世界を巡った。
積極的に生きていた頃の、活き活きとした写真は胸に迫る。

人生は美しい。

ベッドの上のラモンとの対比が、私にそう思わせた。
ラモンは「ただ時間だけが過ぎる生」ではなく「死を選択」したかったのだ。
「選択」
私たちは日々、選択の中で生きているのかもしれない。
この選択の連続を可能にしているのは、自由な体なのかもしれない・・・。



現在でもスペインでは尊厳死は認められていない、という。
日本の医療は、本人の尊厳が家族に委ねられている・・・。


(2009年12月記)