フラガール

「そうとは知らずに私ときたら・・・」
2006年9月23日封切

 監督:李相日
 製作:李鳳宇
 脚本:李相日、羽原大介
 企画・プロデュース:石原仁美
 美術・種田陽平
 音楽:ジェイク・シマブクロ
 撮影 山本英夫
 編集 今井剛
 提供:シネカノン
 演技・振付指導:カレイナニ早川
 出演者:松雪泰子、豊川悦司、蒼井優、山崎静代、
      岸部一徳、富司純子
(上映時間 120分)
第30回日本アカデミー賞
最優秀作品賞受賞作品
第80回キネマ旬報ベストテン
邦画第1位、助演女優賞:蒼井優
第31回報知映画賞
最優秀作品賞:「フラガール」、最優秀助演女優賞:蒼井優
第19回日刊スポーツ映画大賞
作品賞:「フラガール」、主演女優賞:松雪泰子、助演女優賞:富司純子、新人賞:蒼井優
第61回毎日映画コンクール
日本映画優秀賞:「フラガール」、助演女優賞:蒼井優
第49回ブルーリボン賞
作品賞:「フラガール」、主演女優賞:蒼井優、助演女優賞:富司純子
第21回高崎映画祭
最優秀監督賞:李相日、最優秀主演女優賞:蒼井優
第28回ヨコハマ映画祭
日本映画ベストテン 第2位:フラガール、主演女優賞:蒼井優
2007年エランドール賞
作品賞(映画):「フラガール」、新人賞:蒼井優
第16回東京スポーツ映画大賞
主演女優賞:蒼井優、助演女優賞:富司純子
第11回日本インターネット映画大賞
日本映画部門作品賞(第1位)、助演女優賞:蒼井優
第30回日本アカデミー賞
最優秀作品賞:「フラガール」、最優秀監督賞:李相日、最優秀脚本賞:李相日、羽原大介
最優秀助演女優賞:蒼井優、優秀主演女優賞:松雪泰子
優秀助演女優賞:富司純子、優秀新人賞:蒼井優、山崎静代、話題賞:「フラガール」
第16回日本映画批評家大賞
助演女優賞
第44回ゴールデン・アロー賞
映画賞:松雪泰子


昭和40年(1965年)、大幅な規模縮小に追い込まれた福島県常磐市(現・いわき市)の常磐炭鉱。
危機的状況の中、炭鉱で働く人々は職場を失う現実、苦悩に立ち向かい、
町おこし事業として立ち上げた常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)の
誕生から成功までをハワイアンダンサーを目指す娘達の視線で実話をもとに描かれている。
開園までこぎつけるまでの様々な人間模様・・・
東京から雇われてやってきたダンスの先生と娘達の絆・・・
クライマックスでのフラダンスショーは圧巻だ。


この映画の名前だけは知っていた。
ウォーターボーイズ・・・なんとか(吹奏楽部の)ガールズ・・・フラガール・・・
似たようなネーミングの映画が続いていたじゃない?
「(どうせ、若者向きのチャラチャラした映画だろ?)」ぐらいに勝手に考えていた。
まさか、その時、常磐ハワイアンセンターが題材とは知らなかった・・・
そんな私が偶然この映画を観ることになったのはテレビ放映だった。
番組欄を見ても「(なーんだ、今週はフラガールか、見なくてもいいや)」と思っていたのだが、
録画を頼まれてたし、見ていた裏番組も終わったことでもあり、途中から見始めた。
正直、面白かった。
途中からだったけど面白かった。
何がどうと言うことでもないし、どこが面白いか、とたずねられてもハッキリしないが
とにかくよかった。
実話がもとになってるということで、出演者、特に松雪泰子演じるダンスの先生、平山まどかに興味が湧いてきたし、
リーダーの蒼井優演じる谷川紀美子にも「どんな人物か」俄然興味が、疑問が湧いてきた。
映画では平山まどか先生はハワイでハワイアンダンスを習い、SKDで踊っていた、という設定。
借金にまみれて福島いわきに流れてきた。大酒のみで男勝り・・・
今から40年も前の日本で、しかも田舎では白い目で見られる存在だったに違いない。
その彼女本名、早川和子(ハワイアンネーム・カレイナニ早川)さんは台湾生まれ。
幼少から服部・島田バレエ団でクラシックバレエを習い、その興行で24歳のとき訪れた
ハワイでフラダンスと出会った。28歳で再びハワイに留学し、本場のフラ、タヒチアンダンスを身につけた。
一方、蒼井優演じる谷川紀美子は婦人会会長の娘で、母からの反対を押し切って‘山を救うため’ダンスに励む。
実際の谷川紀美子は、小野(旧姓豊田)恵美子(レイモミ小野)さんはいわき市出身。
父親も勤めていた常磐炭礦の東京本社で庶務の仕事をしながらバレエを習っていた。

「どうりで・・・」
東京育ちじゃんか!
バレエしてたお嬢さんじゃないのかぁ?
炭鉱夫の娘とちゃうやんけ!

社内の声かけでどうにか集まった常磐音楽舞踊学院の第1期生は15歳から21歳までの18人。
最年長の小野恵美子さんは、小学2年からクラシックバレエを続け、磐城女子高ではダンス部の主将も務めた。
貴重な舞踊経験者としてリーダーに指名された。
 講師の早川和子さんは当時33歳。
28歳でハワイに留学してフラを学んだ時に一緒だったレフアナニ佐竹さんとテレビに出たのを
中村豊社長が見ており、2人とも講師に招かれた。
6年後に佐竹さんが結婚してハワイに渡ってからは早川さんが1人でフラダンスとタヒチアンダンスを教えてきた。
学院の発足は1965年4月。
翌66年1月15日のハワイアンセンター開業まで10カ月もなかったが、練習はバレエの基本レッスンから始まった。
 当時の反復練習について、1期生は皆「大変でした」と口をそろえる。
父が教育者だった早川さんは礼儀を重んじた。
皆が一生懸命やっている時に遊んでいるような生徒には容赦なくバケツを持たせて立たせることもあった。
 だが、バレエの素養があった小野さんは「しかられた記憶はない」という。
家族が常磐炭礦の事務部門で東京勤務だったため、休みで帰るついでに早川さんと六本木や赤坂で待ち合わせ、
ゴーゴーバーで踊り明かしたこともあった。
ちなみに実際の早川先生は借金もなかったし、大酒のみでもない。
独身をつらぬき、生涯をハワイアンセンターに捧げたようなお人、とのことです。
74歳になられた現在も、常磐音楽舞踊学院の最高顧問としてご活躍です。

その早川先生振り付けのハワイアンダンスを松雪泰子と蒼井優がマスターしたってことよね?
吹き替えじゃないだろうし・・・
いったいどのくらいの期間で覚えたものだろう・・・?


ところで、そんな開業秘話など知るべくもなく、私の小さい頃‘常磐ハワイアンセンター’は大はやりだった。
誰も彼もが‘常夏の楽園、常磐ハワイアンセンター’を目指したものだ。
私も家族で行った記憶がある。子供会の旅行も‘常磐ハワイアンセンター’だったと思う。
大盛り上がりのハワイアンショーも見た。おぼろげながら覚えている・・・
とにかく‘常磐ハワイアンセンター’の名を知らぬ人はいない、そんな時代だった。
その‘常磐ハワイアンセンター’が炭鉱会社で興したなんて・・・知らなかったよ・・・
あの踊り手は、炭鉱の娘さんたちだったなんて・・・知らなかった・・・


まさにこのダンスこそ‘常磐ハワイアンセンター’の象徴
幼い私も「こんなん見たぞー」


監督がインタビューにこう答えている。
「最初の脚本ではハワイアンセンターを構想した経営者側から見た話だった。
しかし、この実話にはいろんな方向性が考えられる・・・(略)」
そう、この映画はダンスで、失業から抜け出し、貧困から抜け出そうとする、
また、純粋に踊ることそのものに楽しみを見つけようとする若い娘たちが描かれている。
今から40年前の話しだ。そこを忘れてはならない。ここでのダンスには生活がかかっていた。
炭鉱が閉山になる、そんな瀬戸際での一大事業だ。
そこに薄っぺらな夢など持ち込めないだろう、山をハワイにするそんなバクチのような話しに
乗るか、乗らないか、、、いや、乗るしかなかったのだ!

「勝手に変わっちまったのは時代のほうだべ」

時代が勝手に変わってしまったのだ。
だからといって手をこまねいてはいられない。生活がある。少女達は踊るしかないのだ。
炭鉱夫はクビになり失業、生きるため他所に流れていく者・・・
新事業に反対し、炭鉱にしがみついている者・・・
様々な人たちの想いを乗せてハワイアンセンターは開業に向けて動き出す。



そして欠かせないのが、映画でも初めよそ者として描かれている先生。
しかし、その先生も炭鉱夫と同じだった。自虐的なセリフで語られる。
「どこにも行くところがないのよ。カワイイのに追い出されてばっか・・・」
それにしても、この先生がいなかったらハワイアンショーの成功はなかったといってもいいだろう。
このような実力ある先生がいたからこそプロのショーとして見せることが出来たのだと思う。
常磐ハワイアンセンターにとっては大恩ある先生だ。
あの、今見ても斬新な振り付けが40年前からあったなんて・・・
やっぱり先生が良かったのね。
考えてみれば、ハワイアンダンスにしてもタヒチアンダンスにしても古典民族舞踊。
伝統文化は昔のほうが確実に伝わったのかも・・・



私はこの映画を続けて3回観た。ダンスシーンは何度観てもいい。
てか、映画全部がいい。訛ってるのもいい。
「いい・・・♪」
と思って調べてビックリ!昨年の映画賞総取りだったんじゃないの!
「知らなかったよ・・・どうりでいいと思った・・・」
結論、「いいものは誰が観てもいい」っつーことで。
炭鉱の夢を乗せて踊るダンスシーンをとくとご覧あれ!


(2007年10月記)