ミリオンダラー・ベイビー

「後悔しない人生」
MILLION DOLLAR BABY 2004年

 製作  : クリント・イーストウッド / ポール・ハギス
  トム・ローゼンバーグ / アルバート・S・ラディ
 監督  : クリント・イーストウッド
 原作  : F・X・テュール
 脚本  : ポール・ハギス
 撮影  : トム・スターン
 出演  : クリント・イーストウッド / ヒラリー・スワンク
        モーガン・フリーマン

(133分)
 第77回アカデミー 最優秀作品賞
 監督賞 クリント・イーストウッド
 主演女優賞 ヒラリー・スワンク
 助演男優賞 モーガン・フリーマン


貧困から脱したいとボクシングに打ち込むマギーと、
ひたすら心の安息を願い地道にジムを経営する老トレーナーフランキーと、その相棒スクラップ。
ボクシングを通して三人の深い絆を描いた人間ドラマ。
単なるボクシング映画にとどまらず「人間の尊厳」を静かに問いかける。


この年のアメリカアカデミー賞の行方は、
5度も監督賞候補に上げられながらいまだ無冠の巨匠マーティン・スコセッシの
「アビエイター」が本命との見方が強かった。
アメリカ映画らしいスケールで大富豪ハワード・ヒューズの生涯を描いた「アビエイター」の
主役はレオナルド・ディカプリオだったが、彼も主演男優賞を逃し、
「RAY」でレイ・チャールズの生き写しとも言わしめたジェイミー・フォックスに輝いた。
「アビエイター」からは助演女優賞にケイト・ブランシェットが選ばれている。
フタを開けてみたら主演女優賞、助演男優賞、監督賞、作品賞と
「ミリオンダラー・ベイビー」一色になったものの「アビエイター」は技術系5部門で受賞。
決して評価が低かったわけではない。
それにしてもマーティン・スコセッシの悲願は、クリント・イーストウッドの出品によってまたしても叶えられなかった・・・


左からモーガン・フリーマン、ケイト・ブランシェット、ヒラリー・スワンク、ジェイミー・フォックス


授賞式でのスピーチはクリント・イーストウッドへの賞賛と敬意の言葉で満ちていた。
96歳になる母親を招いたクリント・イーストウッドは当時74歳。
「私はまだひよっ子。やることはたくさんある」と語ったのが印象深かった。
その後のインタビューでも「13年前「許されざるもの」で受賞した時、‘功績と報酬は関係ない’と言った。
絶対そうだとは言わないが、他人の評価なんて予想できるものではない。
オスカーをとるのはいい作品だが、逃していてもいい作品はある。ベストを尽くすまでさ」と語った。
(「tuzi now」2005年4月クリント・イーストウッド)
「ミリオンダラー・ベイビー」はそんな彼だからこそ撮れた映画だと思う。
雑誌のインタビュー記事にも「この映画はボクシング映画ではない」と明言し、
「僕は自分が見たように真実を語らなくてはならないと思っている。
それに脚本家が元々意図していたように物語を忠実に語ること。
僕は基本的にその題材が気に入ってるから作るわけで、興味あるのは魅力ある物語を作るということだけで、
自分が好きで心から信じられる思慮深い映画だ」と言っている。
また「私は、自分が大事だと思うことを大事だと言うために映画を作っている」とも。
賞レースや観客に媚びない映画作りが図らずも絶大な評価を受けたということだろう。

黒人で主演男優賞に輝いたジェイミー・フォックスのスピーチも印象深かった。
黒人俳優として初めて主演賞を受賞したシドニー・ポワチエに感謝を捧げる言葉だったからだ。
この4年間でオスカーを手にした黒人俳優は4人になり、特別ニュースになることではなくなってきているものの
やはり‘先駆者ありき’の黒人俳優の栄冠であることを忘れてはならないと思った。


さて、映画だが。
マギー(ヒラリー・スワンク)がなぜトレーナーとしてフランキー(クリント・イーストウッド)を選んだのかが不明。
そしてなぜそこまで絶対の信用を置いているのかも不明。
冒頭そのへんのところは曖昧としたまま物語は進み・・・話は後半の佳境に入る。
マギーとフランキーは強い信頼と絆で結ばれているが、それは父娘にも似た感情であった。
しかしそれはセンチメンタルになりすぎて邪推を起こさせかねない点はいただけない。
・・・とまあ、少々腑に落ちない点はあるものの、ストーリー展開、扱ったテーマはさすがと言わざる得ない。

私が好きなシーンは後半、マギーの願いに応えるべきか否か悩むシーンである。
ふたりがアイリッシュ系で、特にフランキーが敬虔なカトリック信者という点を忘れてはならないが、
しかし、そのことにとらわれ過ぎることはないと思う。
それは宗教を越えてすべての人に共通する問題であり、人間としてどう判断すべきかだからである。
その判断の後、自分がとった行動を、その人の宗教がどのように判断を下すか、
それから先のことは個々人の問題だ。
映画の持つ背景を知ることは確かに必要なことかもしれない。
でも、「ミリオンダラー・ベイビー」においては宗教倫理さえも越えて
すべての人が迎える「死」を扱った映画なのだから・・・。

死はその人の生き方を反映するものだ。
私は太極拳をしているが、いつも判然としない気持ちでいる。迷いがありすぎるのだ。
いつだったかある太極拳の先生に「先生はどうして太極拳をしているのですか?」と訊ねたことがあった。
我ながら愚問だと思いきやその先生、「よりよく死ぬため」と答えた。
私は言葉を返せなかった。今でも忘れられない一言だ・・・。


この映画の主人公マギーはボクシングに打ち込んでいる。
なぜボクシングなのか?
誰にでも掛け値なしに好きなことはある。
そのためならどんな苦しい試練も苦しいと感じさせないような・・・マギーにとってはそれがボクシングだった。
そりゃ、ハングリー精神でボクシングで勝って貧困から抜け出すということもあったろう。
マギーが望んだことは貧困から抜け出すことではなく「家族から尊敬されたい」だった。
優しかった父親の回想・・・喜ぶと思って母親に贈った家・・・
ボクサーとして成功するより家族からの愛情が欲しかった。
いや、ボクサーとして成功しお金を手に入れ家族を喜ばせたかったのかもしれない。
マギーが本当欲しかったのは理屈無しの愛情だった。
しかし、マギーは家族に裏切られ、尊敬されるどころか「家族の恥」と蔑まされてしまう。
やがて事故でボクサーとしてリングに立てない体になったマギー。
病院のベッドに寝たきり全身が麻痺し、片足を切断しなければならないまでに。
「片足がなくなっちゃったわ」とマギー。
「大丈夫だよ」とフランキーが優しく語りかける。
「ボスの言うことは信じるわ」
マギーはフランキーだけが信頼できる唯一の存在で、生きるということと闘っていた。
それはまるでリングで戦うマギーとトレーナーのように・・・。
回復の見込みのないマギーに、私立大の案内書を見せて励ますフランキー。
しかし、マギーにとってはボクシングが全てであり、片足を失ってはボクシングは決してできない。
マギーは片足とともに生きるための尊厳さえも完全に失ってしまった。
そしてマギーはフランキーに語り始める。
目を見張る感動的なシーンだ。
「ボクシングの試合に出て世界中を旅した。あたしを呼ぶ歓声・・・
いえ、あんたがつけた変てこな名前‘モ・クシュラ’って応援してくれた。
雑誌にも載ったわ・・・夢にも思わなかったことよ。
あたしは生きた。思い通りに。その誇りを奪わないで。
あたしの名前を呼ぶ声が聞こえなくなるのが怖い・・・」
人工呼吸器で生きているマギーはどうか逝かせて欲しいとフランキーに頼む。
フランキーは「それはできない。俺に頼まないでくれ」と断わる。

そのフランキーという男。
イエィツの詩をよみ、自分の殻から出られないほど罪の意識に凝り固まった男。
娘への罪の意識に苦しんでいる。
マギーの事故も自分の責任だと苦しんでいる。
唯一心を許し、悪態をつきながらも心通わせられる存在がスクラップ(モーガン・フリーマン)だ。
フランキーはマギーの心中を察し、自分の手で逝かせてやろうと思い始める。
が、踏ん切りがつかない。それはやはり大罪だからだ。
そんなフランキーにスクラップが話す。
私の好きなセリフだ。
「彼女は俺が見つけあんたが育てた。彼女にあったのはガッツだけだ。
たった1年後にタイトル戦に挑戦できたのはあんたのおかげだ。
人は毎日死ぬ。床掃除や皿洗いをしてね。
そして人生を悔いながら最期を迎える。マギーに悔いはない。
彼女が最期に思うことは‘いい人生だった’と。俺もそれなら満足だ」
そしてフランキー・・・「ああ、その通りだ」
そして私・・・「ええ、その通りね。それが本心ならね」


私の好きなシーン。この照明、って渋い。西部劇な感じ。

 1.マギー
映画の中のマギーは‘思い通りに生きて’心から‘いい人生だった’と感じていただろう。
それほどに愛情薄く不幸な娘だった。
フランキーを信頼し、ボクサーとして育ててもらい、夢にも思わなかった人生をおくった。
リングネームもつけてもらった。
‘モ・クシュラ’
マギーにはその意味がわからなかった。
ゲール語だったからだ。
死の間際フランキーがマギーにそっと告げた。
「‘モ・クシュラ’意味は「愛する人よ、おまえは私の血」だ」
マギーは涙を浮かべ微笑んだ・・・
彼女の生涯で最も幸せな気持ちになれた瞬間。それが眠りにつく刹那に訪れた・・・。
彼女はフランキーによって救われたのだ。

 2.スクラップ
もうひとり人生に悔いを残さない生き方をしてきた人がいる。
スクラップだ。
この映画にでてくる人たちはそれぞれに孤独だ。
マギーは家族に見放され、フランキーは娘のことで罪悪感に苛まれている。
スクラップはあの歳でボクシングジムの雑用をしながら、ジムの片隅に独り暮らしている。
試合で片目を失った。
だからってそれを悲しがってはいない。
それは「自分は自分のやるべきことをやった」という境地に達しているからだ。
ボクシングが好きで、ボクシングに人生を賭け、その中で全力で生きてきた。
そして今がある。もうそれで十分なのだ。
私は思う。
私は悔いを残さないような生き方をしてきていない、と。
自分の頭で考え行動しているかのようにみえて実はそうではない、と。
家族のしがらみ、妥協、目標半ばで挫けることだっていくらでもあった。
自分が思うように人生を生きてきたなんてこれっぽっちも思っていない。
だから私が後悔してるかって?
それもまた違う。
私は自由に生きられない境遇にあるし、自分だけ好き勝手にできない制約のある環境の中で生きてきた。
ひとりで生きているわけじゃない。
誰しもが自由にできないそれぞれの事情を抱えて生きているのではないのか?
自由に生きられないことを自分以外の誰かのせいとも思わないし、それを後悔しても始まらない。
自由に生きたい、やりたいことだってあるけど、その気持を我慢してるってこと。
その気持ちって最期に「ああ、あの時・・・」って思うんだろうな、って・・・
‘後悔しない人生’をおくるのは容易なことではない。
時には誰かを犠牲にしなければ得られないものだ。
その犠牲を一手に引き受けて苦しんでいるのがフランキーなのか、とさえ思えてくる。
私は誰かを犠牲にし、悲しませてまで自分を曲げず自分の人生だけを全うしたいと思わない。
それなら自分が犠牲になったほうがまだましというものだ。
たとえ、それで後悔したとしても・・・。

 3.フランキー
悔いを残さない人生のツケをひとりで請け負っている男、フランキー。
彼の心は孤独だ。
マギーを救ったにもかかわらず彼は抜け出せない罪の沼にどんどん落ちていく。
救いが得られないのだ。
映画の中でフランキーはW・B・イエィツの詩をよんでいる。
都会の灰色の舗道に佇む詩人が、湖の小島イニスフリーに小屋を建て、
そこで静かに暮らすことを夢見ることをうたった「イニスフリーの湖島」である。
この詩はフランキーの願望を反映している。
あそこでなら、心の安らぎもえられよう。
安らぎがゆっくりと夜明けの空から、コオロギの鳴く我が家に降り注ぐはずだから。
(平井正穂編「イギリス名詩選」岩波文庫)
フランキーに心の平安が訪れることはあるだろうか?
私の答えは「否」である・・・。

 4.tuzi
フランキーはまたも罪を背負うことになってしまったが、マギーはフランキーによって救われた。
私がマギーの立場でも同じことを望むだろう。
でも、心から‘いい人生だった’と満足して最期を迎える人なんているんだろうか?
それは‘満足’ではなく‘諦め’なのではないだろうか?
人間の欲は限りない。
傍からみてどんなに完璧と思える人の人生だって、その本人にとっては‘まだまだ’と感じているかもしれない。
やり残してること、納得いかないこと、‘これから’と考えていたこと・・・あるものではないだろうか。
私などは、「ああ、あの時こうしてさえいれば」の連続だ。
とても自分の人生に満足して最期を迎えるなんてできそうにない。
後悔しない人生なんて、もはや送れそうもない。
多かれ少なかれ無念を残し、後悔しながら死んでいくものではないのか。
だからどうということではない。
それはそれで‘よし’なのだ
仕方がないではないか。
時間は戻らないし、人生をやり直すなんてことはできないのだから。
ならばせめて、最期の瞬間だけはいいことだけを思い出して逝きたいものだと私は思う。
いったい最期に私は何を思うのだろう・・・
最期の瞬間思い出して幸せな気持ちで逝けるような思い出を、果たして私は持っているだろうか・・・

「ミリオンダラー・ベイビー」は生き方を見つめなおす数々の題材を与えてくれた。
でも、それらの答えは映画の中にはない。
それは観た人それそれが考えることだからだ。


観る人に問題提起するアメリカ映画が少ない昨今。
クリント・イーストウッドは自分の思いを映画にのせて伝えてくれる貴重な存在と言わねばならないだろう。
‘やりたいことはまだまだある’と語ったクリント・イーストウッドだが、映像に映る彼を見て
「歳をとったなあ・・・」と、痛々しく思うのは私だけですか?
彼自身「74歳という人生のこの段階に至って、僕は自分が観たいと思う映画を作ることの方に、
ますます興味がわいてきた。CGを駆使して大げさな作品よりもね。
そういう映画を撮るためには自分が年をとりすぎていることは自分でもわかっているし(笑)」と語っている。
年齢を重ねるたびに作品の質を高めていく。
彼にはその力の源となる、どこかストイックな面があるのだろう。
これからも彼から目が離せない!・・・でしょ?


(2006年1月記)