「不条理」
2000年

 製作・監督・脚本 : 神山征二郎
 原作 : こばやしひろし(戯曲)
 脚本 : 加藤伸代   音楽 : 姫神
 出演 : 緒方直人、岩崎ひろみ、古田新太、加藤剛、
       林隆三、長島敏行、前田吟、山本圭、
       篠田三郎、林美智子、日色ともゑ、
       須藤温子、犬塚弘、尾美としのり、河原崎健三
(112分)


江戸時代の三大一揆のひとつであり、唯一藩主更迭という農民の勝利に終わった一揆である、
郡上一揆を史実に基づいての映画化。総制作費4億円!
宝暦4年(1754年)、美濃国郡上藩では出来高によって年貢を変える‘検見取り’(けみどり)という、
事実上の重税を農民に課すことになる。
これに反発した農民達は決起して城に押しかけ、老中は仕方なく彼らの訴えを聞き入れる約束をした。
だが、翌年藩は庄屋たちに圧力をかけて強攻策に打って出る。
ついに農民達は代表を組み、江戸藩邸への直訴を決意した。
それはその後4年に及ぶ長い戦いの始まりだった・・・
岐阜県出身の神山征二郎が長年映画化を切望した念願の力作。
緒方直人扮する定次郎はじめ農民達の団結、勝利を得ながらも死罪となってゆく農民の悲劇を映し出している。



まずは映画を観ていただきたい。
「なんで??」
「なんで、そうなるの??」
身分社会の不条理が描かれているのは分かるが、勝訴したのにあの結末は、どうも判然としない。
単細胞の私の頭では理解できなかった。
簡単な話し、働いても働いても年貢に取り立てられて、暮らしに困ってる農民。
百姓の上には庄屋がいて、これが領主に納めるシステム。
領主は幕府から役職を賜り、なにかと物入りだから国許に送金を迫る。
国家老は庄屋を通じて農民に増税を迫る。そのことに納得いかない農民が反発する・・・
まずは手順を踏んで抗議する。
国家老は増税しない旨を約束した。
・・・約束したはずが、領主にやいのやいの言われて反故にした。
事態はこじれて、駕籠訴を決行。
やがて箱訴に及んだ。
違法行為ではあるが、その訴願は聞き入れられ最終的には藩主は領地没収、御家断絶。
老中、若年寄、勘定奉行、代官らが免職。
ほかに幕府や藩の役人多数が罰せられるという完全勝訴に終わったというのに・・・
「なぜに??」
「なぜに、訴えでた農民達が打ち首なの??」
「勝訴したのになぜに、獄門なの??」

どうにも解せない私は一揆について、またこの郡上一揆(郡上宝暦一揆、または郡上金森藩宝暦騒動)について
調べてみた。
私の感覚が、現在の裁判制度にたって考えているため、根本から頭を切り替えねばならないのだが、
どうも時代劇の見過ぎか、「正義が勝つ」で終わらない現実を突きつけられているようで・・・。
日本の身分制というものをテレビの時代劇で甘くみていたようだ・・・
水戸の黄門様にタメぐちきいたら即刻打ち首だっただろうに・・・

数冊読んでみて、一番詳しかったので推薦したいのが
岐阜新聞社で発行している「郡上金森藩宝暦騒動」(杉田理一郎)
郡上金森藩以外にも宝暦という時代には大規模な一揆(騒動)があったことなど、
広範囲にわたって書かれており大変勉強になった。また、民衆者発行「図説・日本の百姓一揆」もよい。

一口に一揆と言っても、その形態は様々で、例えば武器に石は含まれない。
役人が刀で応戦しても、こちらが鍬や鎌を持たず、あくまで石だけ使うなら
それらは武器ではないから一揆とは言えない・・・徒党扱いとなる・・・など。
一揆と記されていても厳密には一揆とみなされない騒動もある。
そもそも一揆とはなんぞや??
打ちこわしや、暴動をさすのか??・・・いや、そうではなさそうだ。
正統に手順を踏んで訴え出ても埒が明かないから越訴に至る・・・これでも一揆か??
集団で訴えでたら越訴ではなく強訴となるのか??
そこのところは曖昧なまま判然としないところだ・・・
郡上の場合は強訴(ごうそ)とみなされ、首謀者をあげるための取調べ(拷問)が長期間にわたってなされ、
牢死したもの19名に及んだ。
判決は14名が死罪、うち4名が獄門だった・・・
(強訴の場合、首謀者をあげることで落着とされた)


1770年(明和7年)高札。「徒党、強訴、逃散を訴人したもの対する規定」
これが訴人奨励の徒党禁令として知られているが、百姓一揆を簡潔に規定しているという。
逃散とは農民が自己の耕作地を放棄して逃亡することで、
江戸時代の初期に多くみられるが、この戦術は農民にとって命がけだった。
愁訴とは文書による嘆願お呼び手続きをふんだ上級者への訴えであり、合法的な農民闘争である。
越訴は訴訟の手続きの際順序に従わず、段階をとびこして行うもので、
本来、代官へ訴え出るべきものを直接領主へ訴えたり、
また藩をとびこえて幕府の巡検使や江戸老中へ駆け込み訴えなどしたのがそれである。
越訴は筋違いの訴えであり、本来禁じられていたので愁訴と違って、訴訟人は処罰覚悟であった。
強訴となれば実力行使に及んだものをさし、さらに破壊を伴えば打ちこわしとなるが、
打ちこわしのうち地域が拡大したものは暴動となる。

訴願が強いられたか否かは領主側の認識いかんにかかるわけであるから、多様性を含んでいる。
越訴に及んだにしろ、幕藩領主は重度の非合法訴訟として認識していたかどうか。
国の掟に反する違法行為であって、直訴人は厳刑に処せられる、とあるが、
一切処罰されていない事例も存在する。入牢さえされない事例も多数ある。
一方では、佐倉惣五郎のように直訴したことで厳刑に処せられた話もある。
いずれ、越訴におよぶには直訴人が厳刑覚悟の上でのぞんだに違いない。
であるからからこそ、代表越訴が一般的だった。
1724年(享保9年)の享保度法律類寄で処罰が確定される。
「徒党の強訴を企て候頭取、この類すべて磔、または獄門」
このように享保年間に頻発した農民一揆によって、法規制も厳しさを増し、頭取隠しの方策として、
傘状連判(車状連判とも)が発展した。
当時、一揆の鎮圧には代表者(首謀者)の処罰が目的であり、その者の処罰が落着と考えられていたからだ。

時代によって一揆の形態も、また処罰も藩によって、時代によって違ってきている・・・


越訴(おっそ)
所定の訴訟手続きを経ず上訴すること。
所轄の役所、役人への訴願が受理されなかったり妨害された場合、
それを越えてより上級の役所、役人へ訴願することで、幕府法令では差越願、筋違願という。
その訴願対象や行動の違いによって直訴(じきそ)駕籠訴(かごそ)箱訴(はこそ)などと称した。
原則として訴状は受理されず、管轄役所、各領主へ訴願するように命じるが、越訴が執拗に繰り返されたり、
極端な非法、非分など内容によっては受理してしかるべき役所に審理を命じることもあった。
義民伝承などではしばしば越訴を重罪としているが、越訴自体への罰則は叱、過料など軽微で、
駕籠訴でも急度叱程度の軽い罪である。
訴訟制度上は強訴、門訴も越訴のうちだが、その集団性と実力行使ゆえに重罪を科せられたので、
実際上においても研究史上においても越訴と区別される。

駕籠訴(かごそ)
越訴の一種。
老中、奉行などが駕籠で通行中それに近づいて訴状を差し出し訴えでる違法な訴願形態

箱訴(はこそ)
民衆から訴訟を受け付けるため設けられた目安箱に訴状を入れて訴願すること。

徒党(ととう)
本来は仲間、集団の意味だが、
明和7年(1770年)幕府一揆禁止令に「よろしからざる事に百姓大勢申し合せ候を
徒党ととなえ」とあるように、百姓らが一揆集団を結ぶことを指し、違法行為とされた。

強訴(ごうそ)
集団の実力行使を背景に訴願内容を認めさせようとする一揆形態
明和7年(1770年)幕府一揆禁止令に「強いて願い事企てたつるを強訴という」とある。
寛保1年(1741年)幕府は強訴の頭取を死罪と定めた。

門訴(もんそ)
多数が領主屋敷や奉行所、代官所などの門前に押しかけて訴えでる違法な訴願形態
明和8年(1771年)幕府は門訴を禁じ、首謀者を遠島などの重罪に処することにした。
鍬や鎌など武器とみなされるものを携行したり、門を越えて屋敷内になだれ込んだ場合は強訴とみなされた。



とにかく、形は変われど、その構造は現代社会にも生きているような気がする。
農民一揆は、幕府の財政難を支えるためのしわよせを藩に課し、そのまたしわよせが農民に及んだ結果である。
その根は、藩にあるばかりでなく、ひいては幕府にあるといっても過言ではない。
事実、郡上の場合はそうであった。
そして、当時の身分制で「筋違い」と頭を押さえつけていた。
不条理に泣いていたのはいつも農民だった・・・
さらに言えば、その農民にさえ身分制があった。
いや、苦しさから下を作り出したといってもいい。
それが穢多、非民である。島崎藤村の「破壊」だ。
人間が極限に追い込まれると、とんでもないことを考えてしまうようだ。
それこそ、精神的に‘破壊’されてしまうのだろうから・・・


(2005年6月記)