大菩薩峠

「市川雷蔵の魅力」
大映・1960年(昭和36年)

 監督 : 三隅研次
 原作 : 中里介山
 脚本 : 衣笠貞之助
 撮影 : 今井ひろし
 出演 : 市川雷蔵 / 中村玉緒
       本郷功次郎 / 山本富士子


(105分)


市川雷蔵・・・という大年の名役者。
私も映画好きの端くれとして名前くらいは耳にしていた。
代表作は・・・「眠狂四郎」だっけ・・・?
そうだった。実は名前しか知らないのだった・・・。
映画好きといっても市川雷蔵をこちらから求めて観ようとすることもなかったわけで。
私の世代は「眠狂四郎」といえば田村正和だったし。

そんな時、「大菩薩峠」がテレビで放映されることを知った。
「大菩薩峠」は中里介山原作の映画化である。
原作もさることながら映画としての評価も高かった。
一度、見てみたいものだと思っていた映画でした。
だからといって、その主役が市川雷蔵その人だとは知らなかったのだが・・・。

私の映画好きは父からの遺伝である。
「テレビで3日間に渡って「大菩薩峠」があるのよ」と話すと「机龍之助か・・・‘音無しの構え’だな」と。
流石である。
「知ってるの?」
「片岡千恵蔵で観た」とのこと。
流石である。
私にとってその年代は未知なる世界だ・・・。


冒頭、富士山を遠望する大菩薩峠の頂上に現れた黒紋付着流しの侍。
「おやじ、うしろを向け・・」
と声をかけ、何のいわれもない老巡礼を一刀両断切り捨てる。
剣の練習台に切り捨てた老巡礼には山本富士子演じる孫娘があった。
代々剣道の指南の家に生まれた机龍之助の剣の腕は右に出るものがないほど。
御前試合の依頼があった。
その試合の直前、試合相手の妹と称する女の訪問を受ける。
「兄は剣術指南として召抱えられる先が決まっています。
しかし、あなた様に試合で負けるようなことがあれば兄の肩書きにキズがつきます。
どうか、ご容赦のほどを・・・私はお家のためこうして恥を忍んでお願いに・・・」
妹とは方便、実は試合相手の妻お浜だった。
情け容赦のない机龍之助はこの申し出を断わり、おまけにお浜を犯してしまう。
御前試合では妻の不貞を知った夫がいきり立ってしまい、机龍之助の木刀で命を落としてしまった。
お浜と江戸に逃げた机龍之助は一児をもうけるが、生活苦に疲れたお浜はいつしか魔性の女となり、
龍之助にグチグチ責めるようになってしまう。
「こんなはずではなかった・・・今となっては夫が恋しい・・・」
魔性の女お浜をチャーミングな中村玉緒が好演。
ついには机龍之助の刃にかかって玉緒ちゃん、いやお浜は殺されてしまう。
もはや、机龍之助は狂気の剣に走っていた・・・
兄と兄嫁を殺されたと机龍之助を敵と、あだ討ちを誓う弟に本郷功次郎が扮し、
ひょんな縁から山本富士子とともに机龍之助を追う・・・。

とまあ、ここまでが第一部。
映画は第二部「竜神の巻」第三部「完結編」へと続く。

机龍之助は眠狂四郎同様、女難の相があるようだ。
中村玉緒がお浜、お豊、お銀の3役を演じわける。
女にめっぽう好かれる机龍之助であるが、この男、どこまでもクールだ。


いやあ、はまりました♪
机龍之助の魅力もさることながら、原作に流れる壮大な「運命(さだめ)」の演題。
深いです!
巷ではぺ・ヨンジュンが「ヨン様〜♪」と大変な大騒ぎですが、それどこの話しじゃありませんて!
映画「大菩薩峠」はもちろんのこと、市川雷蔵に不思議な魅力を感じました。
やっぱ、噂にたがわぬ二枚目役者である!
「この役者ってどんな人??」
「市川ってくらいだから歌舞伎の家の人??」
「市川雷蔵が父だという歌舞伎役者っていたっけ??」
私の市川雷蔵の知ってることといえば、既に亡くなっているということだけ。

市川雷蔵の最大の魅力はセリフまわしの声でもある。
重厚な声だからセリフに説得力が生まれる。
「女は魔物だ・・」
「唄いたい者は勝手に唄い、死にたいものが勝手に死んだまでだ」
「欲しい女ならくれてやる。だがその小ざかしい小細工が気にいらねえ」(斬!)
「騒いで刀が先走ると、わしは目しいでも、この矢の先には目があるぞ」(斬!)
「うたた寝の邪魔をする者容赦せん!」(斬!)
少し鼻にかかった感じで、でも田村正和ほどイヤミがなく、力がこもっていないのに華がある声・・・
低音で落ち着いているようで、だからといって地味というのでもない・・・
掴み所がないようでいて、決まってる!
その所作に関しても、別段殺陣(たて)が上手いというのでもない。
二枚目といっても長谷川一夫のように、見とれるほどの美形というのでもない。
これといって掴み所がなく、脱力した感じ・・・
机龍之助の‘音無しの構え’でみせる凄みのないまなざし・・・
なんとも不思議な魅力を持った役者、市川雷蔵。

何の知識もない私は、市川雷蔵について少し調べてみたくなりました。
市川雷蔵。1931年〜1969年。京都府出身。
歌舞伎俳優から1954年大映入社。
1958年「炎上」でブルーリボン主演男優賞。
後年は‘眠狂四郎’シリーズ、‘忍びの者’シリーズなど多くの作品に主演した。
1969年肝臓ガンにより37歳の若さで死去。

・・・とまあ、簡単に書けばこうなるが、その出生から彼の人生は訳ありだった。


1931年、昭和6年8月29日亀崎章雄は京都に生まれた。
ところが、祖父が自分の意に染まぬ息子の嫁に難癖つけて家から追い出してしまった。
孫である章雄も、嫁といっしょに実家に帰すつもりだったらしいが、
章雄の父がなんとかとりなして、嫁いでいた姉に預けた。
章雄の叔母にあたる人の嫁ぎ先が歌舞伎俳優、市川九団次だった。
この叔母夫婦には子供がなく、章雄は竹内嘉男となり何不自由なく育った。
九団次の養子となって得た芸名は市川莚蔵、初舞台は昭和21年だった。
「惰性的に歌舞伎俳優となってしまった私だったが、もとより名門の出でもないままに
発奮して勉強するような、よい役がつくはずもなく」と本人が言ってるように、
学校では成績優秀で、特に理科系が得意で、将来は医者になりたいと考えていたという。
だが、その夢も終戦の直前で学校も辞めてしまったのだから、
役者に邁進するのかと思えばそうでもなかった。のらりくらりと過ごしていたようだ・・・

そのうち、歌舞伎の名門、市川寿海の養子になる話が持ち上がる。
養父、九団次にとっては嘉男の将来を思っての選択だったろうし、
養母の叔母は生後6ヶ月から育ててきた子供とは別れたくなかっただろう。
そして嘉男自身、自分の将来のためということで養父母をさしおいて養子になることは考えられなかった。
周囲からも薄情者と見られたことは否めない。
しかし、九団次の強い勧めで市川寿海の養子となり太田吉哉となった。
と同時に歌舞伎界の御曹司の座も手に入れたわけだ・・・

このように、雷蔵自身数奇な運命にあって、彼の人となりにどう影響を及ぼしたのであろうか。
彼は、物事に無頓着なほうであったらしい。
愛称を「ナマコのヨシ」といった。
なまこは柔らかそうで歯ごたえがあり、のんびり型のようで芯があり、
いわば、とらえどころのないキャラクターからついた仇名のようだ。

1954年(昭和29年)彼の映画界入りも、そんなキャラクターそのまま、のらりくらりと入ってしまったようだ。
映画界入りは歌舞伎の名門、市川寿海としては賛成しかねるところもあったに違いない。
「歌舞伎とか映画とか一方的な小さな枠の中でのことでなく・・・(略)
いずれの道をとろうとも私が立派な演技者として成長していくことこそが
本当の意味での親孝行になるのではなかろうか・・・と」
大映入社から雷蔵は単純に割って年平均7本の映画に出ずっぱりである。
2ヶ月に一本の割合で撮っていたことになる。
当時としては驚くに値しないペースなのだろうが、

時代物はもちろんのこと、侍、殿様、三枚目、またたび物に忍者、ヤクザ者・・・
歴史小説では源氏物語、忠臣蔵、水戸黄門、新撰組・・・
文学作品では三島由紀夫‘炎上’、山崎豊子‘ぼんち’、泉鏡花‘歌行燈’‘女系図’
井原西鶴‘好色二代男’、島崎藤村‘破壊’、有吉佐和子‘華岡青洲の妻’・・・
外国物では釈迦、秦の始皇帝、妖僧・・・
現代物ではネクタイにピストル姿の殺し屋も・・・
はまり役の眠狂四郎だけでも11本。

彼の主演した映画を眺めるに作品を選ばず、ジャンル無差別だったことが見えてくる。

当時、片岡千恵蔵、長谷川一夫、市川歌右衛門、東千代助といった看板なスターは、
どんな役を演じても、片岡千恵蔵が演じれば‘千恵蔵もの’になったし、
中村錦之助が演じればどんな映画も‘錦ちゃんもの’になったものだ。
そんな中で、市川雷蔵の無差別ぶりは異色といえよう。

また、現場での雷蔵は毒舌で有名だったという。
それが大映の社長にでさえ口調は変わらなかったという。いけしゃあしゃあと言ってのける。
しかし言われた当人が不思議に気分を害さなかったと言うから不思議だ。
やはりとらえどころのないキャラクターなのだ。
彼が嫌悪したのは‘甘ったれた物の考え方’‘イージーな妥協’‘底の浅い論理’だったという。
「演技やとか、演技者とか、うわっつらのことばかり言って。
芝居でいいやないか。何が演技者や。僕は役者でええ。僕は役者や」

昭和37年、結婚。
その翌年、眠狂四郎の一作目が撮られた。本人、失敗だったと断言している。
「試写を見て私は驚きました。
狂四郎という人物を特徴づけている虚無的なものが全然でていないのです。
(略)
このことは、まことに迂闊千万な次第ですが、私自身家庭を持った安らぎ、
あるいは充実感といったものが無意識ににじみ出た結果だと知ることができました」
反省文であるはずなのに、ある意味のろけにもなっている。
これではファンも呆れてしまうだろうに。
こんなことも、いけしゃあしゃあと言ってのけるのも雷蔵のキャラクターなのだ。
第2作以降は、眠狂四郎の持つ虚無感、ニヒリズムを見事に演じ、
(演じたのか地によるものが多分にあったと思うのですが・・・)
彼の当たり役となったことはご承知のとおりだ。

晩年は(といっても30代だが)劇団の旗揚げにのめりこんだ。劇団「テアトロ鏑矢」である。
雷蔵の自発的に真にやりたい世界が見つかった、といった感がある。
が、その矢先病に倒れる。
もともと腸が弱く体調を崩しながらも撮影をしていたが、ついに手術を受けることになったのだ。
一時は映画に復帰したが、その翌年7月17日午前8時20分肝臓ガンで亡くなった。
雷蔵は酒をたしなまなかったというから体を酷使したためだったかもしれない。

まあ、まだまだ魅力は語りつくせないが、ずいぶんと長々と書いてしまった。
このことは村松友視著「雷蔵好み」に詳しくあります。


「雷蔵好み」村松友視 集英社


「大菩薩峠」の和尚の言葉どおり、「それがあの男の運命(さだめ)なのじゃ」を地で生きたような
人生だったのではなかったか。
そんな気がしてならない・・・
彼自身、運命に逆らわず、のらりくらりと見えていて、実は淡々と目の前の運命を受け入れてきた。
映画の役に関しても、あらゆる与えられた役をこなしてきた。
こなす、などと言うとただやり過ごしてきたかのように聞こえるかもしれないが、それはそれで積み重ねると大変な労力だ。
運命に逆らわず、あるがままに受け入れ、役柄も与えられるまま吸収し受け入れる。
無駄な力を使わない彼流の生き方が映画での不思議な魅力になっているのだろう・・・

「大菩薩峠」で机龍之助を敵とし、あだ討ちを願う若者に和尚の言葉。
「あだ討ちを孝心だなどと褒めるやつがどうかしてる」
「では和尚は悪人が野放しになっていても構わぬと?」
「苦しゅうない」
「では、和尚の親兄弟が殺されても無念ではないのですか?」
「そりゃ、無念とも残念とも」
「思うだけですか?」
「それ以外、思いようがなかろう。仏の心は広い。慢心はいかんぞ」

この和尚の心、言葉は違えど机龍之助に共通している。
「神や仏がこの世にあるか知らん!」
「そんな怖いことを・・・いっそ私を殺してくださいな」
「いずれ、そのような時もあろう・・・」

机龍之助の最期は子供の名前を叫びながら洪水に流されてしまう。
あだ討ちの若者がその光景を前にし、和尚が追おうとする女を止めるラストシーン。
「あれが敵の机龍之助か・・・女、死んで何になる!
あの男は生きるも死ぬもただひとり。それがあの男の運命(さだめ)なのじゃ」

そう、誰しも運命(さだめ)に逆らうことはできない。
ならば、机龍之助や市川雷蔵のようにその運命(さだめ)を達観して生きたいものだ・・・


(2005年4月記)