「人間の原点」
LA STRADA 1954年

 監督 : フェデリコ・フェリーニ
 脚本 : フェデリコ・フェリーニ
       テュリオ・ピネッリ
 音楽 : 二ーノ・ロータ 
 配役 : ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ) / ザンパノ(アンソニー・クイン)
       綱渡り芸人(リチャート・ベイスハート)
 1954年度ベネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞
 1956年度アカデミー賞外国語映画賞
(107分)


イタリア映画といえば、フェデリコ・フェリーニだべ。
フェデリコ・フェリーニの映画は人間の原型、人間の魂に直接訴えかけてくる。

粗野で力だけが売り物の大道芸人ザンパノは、ジェルソミーナという、家族の犠牲になって売られた少し頭の弱い娘を雇って、
オート三輪の荷台がねぐらの、旅から旅の放浪生活を送る。




ジェルソミーナはザンパノから家畜のような扱いを受けるが、他人に「女房」と紹介されるのが嬉しくて、
何とか役に立とうと努める。
そんな、純真なジェルソミーナの心の慰めは綱渡り芸人だった。
綱渡り芸人とザンパノは犬猿の仲で、ジェルソミーナに獣のような男といっしょにいる理由を聞く。
「犬は相手のことが好きで愛していても、ただ吠えるだけだ」と。まるでザンパノを思わせる言葉に
ジェルソミーナは可哀想ね’と答え、‘何の役にも立たない自分のこの世での役目は何なのか’と、
綱渡り芸人に問いかけて、‘自分がいないとあの男は独りぼっち’と答える。
その心を感じ取った綱渡り芸人は、例えば石ころだって‘この世で役に立たないものはなにひとつない’
言って立ち去る。
綱渡り芸人の言葉はジェルソミーナの心を慰めていた。
ジェルソミーナにとって綱渡り芸人は天使だった・・・

ところが、ふとしたはずみでザンパノは綱渡り芸人を殴り殺してしまう。
ジェルソミーナはそれをみて、気がふれてしまう。
心の慰めの存在を殺された悲しみのせいか。
ふさぎこんで、泣いてばかりいる役に立たないジェルソミーナを、ザンパノはついに置きざりにしてしまう。
枕元には綱渡り芸人に習った曲を吹いていたラッパを置いて・・・




数年後、老いたザンパノに力芸も役に立たなくなる時がきた。
そんな時、ジェルソミーナが吹いていた曲を耳にする。
聞けば、4、5年前にこの街で風変わりな女が吹いていたメロディだと言う。
何も語らず、食事や寝るところを恵むと「ありがとう」とだけ言ってラッパであのメロディを吹いていたという。
そしてある朝死んでいたと。
突然、底知れぬ悲しみに襲われたザンパノは酔いどれて、暗い砂浜でひとり泣く・・・


孤独な人間同士が生きるこの世を、神の目と神の心で描いている作品。
人間が人間を殺す。希望すら人間が、己が踏み潰す。
そのことにすら気がつかない人間の愚かさ・・・

神の目からは人間はどこまで行っても愚かだ。
取り返しがつかなくなって初めて知る、遅すぎる後悔。
ザンパノが夜の浜辺ですくった砂のように、指からすり抜けて、決して戻らない砂・・・
気がついた時、残ったものは己の孤独・・・
夜の浜辺でザンパノが見上げた夜空には、満天の星が煌いていたことだろう。
その星ぼしは、ザンパノが行った、盗みや殺し、置き去りにしたジェルソミーナの末路まのすべてを神の目として見つめてきた。
そして、その天のもと、たった一人きりのザンパノ。彼は友人までをも殺し、神の修道院から盗みを働き、
たったひとり見捨てることなくついてきたジェルソミーナを捨てた。
報いとは言わない。
気づくべき事態に、取り返しがつかないほど遅いがようやく気がついたのだ。
どんなホラー映画より、恐ろしく怖い・・・
愚かなザンパノは間違いなく私の姿だ。




この映画を観てから随分月日が経ったが、この時の衝撃と、言いようのない哀しみは忘れられない。
なのに私の愚かさは年月を経ても変わっていない・・・


ところで、監督のフェデリコ・フェリーニとジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナは1943年に結婚した夫婦だった。
出会いから半年後に結婚したふたりは、イタリア映画界きってのおしどり夫婦。
大の旅行嫌いのフェリーニを残して、各国の映画祭に積極的に参加したマシーナ。
フェリーニは妻マシーナのことをこう言っている。
「ジュリエッタは自然に夢を呼び起こす天分がある」

ふたりは共に1920年生まれ、23歳で結婚。
50回目の結婚記念日(10月31日)を祝った翌日にフェリーニが逝き、その5ヵ月後にマシーナが逝ったという。
運命的な出会いと最期。孤独とは無縁のふたりだった。
お互いが見つめる‘道’はいっしょだったということか・・・。


(2019年12月更新)