ドライビング・Missデイジー

「人種差別と老い」
DRIVING MISS DAISY 1989年

 監督 : ブルース・べレスフォード
 脚本 : アルフレッド・ウーリー
 出演 : ジェシカ・タンディ / モーガン・フリーマン / ダン・エイクロイド
(99分)
 アカデミー作品賞、脚色賞、メイキャップ賞
  主演女優賞=ジェシカ・タンディ
 ベルリン映画祭
  最優秀共演賞=ジェシカ・タンディ
            モーガン・フリーマン


話しはデイジー(ジェシカ・タンディ)が運転を誤って車を燐家に突っ込んでしまったシーンから始まります。
72歳で、もう運転は無理だろうと、綿工場を経営しているユダヤ人の息子ブーリー(ダン・エイクロイド)は
母親のために60歳の黒人運転手ホーク(モーガン・フリーマン)を母親の元に送込みます。

ところがデイジーは、めっぽう気が強いうえに口が悪く、「運転手なんかいらない」と言ってさんざん彼を手こずらせ、
こきおろし、わがままいっぱいの態度をとる。
しかし、ホークは苦労人で、ダダッ子みたいな彼女をうまくあしらってお守りをする。
デイジーは元学校教師で根は悪い人間ではない。
このふたりが次第に心を通わせていく25年の友情の軌跡を淡々と描いている。
その間事件らしい事件は起こらないが、人種差別や老いの実態が語られる・・・。

やがて時は過ぎ、1973年、97歳になって施設に入っている彼女。
見舞いに来た息子には相変わらず口が悪いが、一緒に訪ねて来た85歳のホークにだけには
心を許している風情なのである・・・。


アルフレッド・ウーリーが自分の原作戯曲を自分で脚色、脚本を手がけた。
主演女優賞を受賞したジェシカ・タンディ、この時83歳。

たぶんこの映画の重要な点だと思うのですが、デイジーは豊かなユダヤ人でホークは黒人、
舞台となるのはジョージア州アトランタ(=南部)。
映画の中で、道ばたに駐車したデイジーの車を不審に思った警官が尋問するシーンがあります。
デイジーの車が去った後ふたりの警官がつぶやきます、
「ユダヤの婆さんと黒人の爺さん、最悪の組み合わせだ・・・」

 「キリスト教云々」という言葉がデイジーの口から出ますが、デイジーはユダヤ教なのでしょう。
デイジーは最初、息子が手配した運転手をかたくなに拒みます。
「成り上がり」のユダヤ人がお抱え運転手の車で出かける、という世間体を気にしたわけです。
 道ばたに車を止めて用を足そうとするホークを、デイジーが詰るシーンがあります。
ホークの答えは、ガソリンスタンドは黒人にトイレを使わせないからだ、というものでした。

 アメリカの南部で、ユダヤ人と黒人が信頼関係を築くことは如何なることなのか。
深刻ぶること力むことも無く、デイジーとホークが老いてゆく25年間は、
生い立ちも宗教も人種も異なるふたりが、お互いを認め合う関係を築く25年でもありました。
 認知症を発病し老人ホームに入った90歳のデイジーを、
運転手を辞めこれも老人となったホークが訪ねるシーンは、感動的です。
ここでは、「老い」というものが人生にもたらす充足感を感じさせます。


私がこの映画を見たのは1990年頃だったと思う。
当時アカデミー賞を受賞した作品という話題性があって映画館に行って観た。
私も当時はまだ若く、感想といっても薄ボンヤリと人種差別か・・・くらいにしかとらえることができず、
観終わって拍子抜けしたことを覚えている。

あれから14年・・・
テレビで放送されたこの映画を改めて観た。
そこには、人種差別を超えて「老い」が描かれていたことに気がついた。
人間、年を重ねてはじめて判ることがある。
仕事中にポックリ亡くなったお手伝いさんのことを、女主人のデイジーは黒人の運転手に
「彼女、幸せだったわね」
とつぶやくシーン。
老いて家族に疎まれながら生きながらえるより、ポックリ死にたい。
デイジーの分からず屋のガンコ婆さんぶりが、かろうじて自立心を支えているように見えた。
自動車の運転ができなくなったことを恥と思う、最後まで息子や嫁の世話にならず、
妥協することなく人生をまっとうしたい・・・
が、しかし・・・
老いてこの気概を保つことは誰もが持つ理想であって、容易なことではない。
この気持ちが、10代、20代で理解できるだろうか。
頭で理解できても、それは当事者としての気持ちからは、かけ離れている。
判ったつもりになってるだけだ。
だって、老いはまだまだ遠くに存在しているから・・・。
人間、年を重ねてはじめて判ることがある。

家族を離れ施設に入所したデイジー。
息子とホークが連れだって面会に現れた。
デイジーは施設にいる我が身を恥じ入っているようでもあり、自尊心が許さないところもあり・・・
「こんなありさまよ」と嘆くデイジーにホークが笑って話しかける。
「まあ、こんなもんさ!」
デイジーがふっと微笑む。
「さあ!」とホークがデイジーの口にケーキを運ぶ。
デイジーはそのケーキをあ〜んして口に入れる・・・

私はこのシーンが大好きだ。
ケーキを食べさせてもらう。しかし相手は黒人の運転手だ。
友人としての自然な交流がここにある。
そう!誰しも老いる。
家族の他人の助けが否応なく必要となる。望むと望まないに関係ない。
「老い」とはそういったものだ。これはどうすることもできない。
その時「まあ、こんなもんさ!」と声をかけてくれる友人がいたらどんなに幸せなことだろう。

老いに人種差別はない


物語は1948年から始まる。アメリカのアラバマ州アトランタ。
舞台のアトランタは黒人の多い南部の町である。
この町でマーティン・ルーサー・キング牧師の指導する公民権運動が燃えあがるまで
人種差別がひどいということで知られていたところでもある。

ユダヤ系お金持ちの婦人デイジー。
幼い頃はつつましい生活だった彼女は、自分は誰にでも平等に接する人間だと思い込んでいた。
そこが白人の思い上がりだということにさえ気づかずにいたデイジー。
キング牧師の演説。
「無関心が社会を蝕む・・・」
しかし、そんな人種をも超える「老い」が誰にも平等に訪れる。




映画はそれを観た年齢で感じ方がずいぶん変化するものだ。
私はこの映画をとおしてそのことを実感した。
こんなに多くのことを語りかけていた映画だったのに若かった私にはその声が届かなかった。
私もまだまだヒヨッ子だなあ・・・


(2004年2月記)