ミスターグッドバーを探して

「普遍性」
LOOKING FOR MR.GOODBAR 1977年

 監督/脚本 : リチャード・ブルックス
 原作 : ジュディス・ロイナー
 音楽 : アーティー・ケーン
 撮影 : ウィリアム・フレイカー
 編集 : ジョージ・グレンビル
 美術 : エドワード・カーファグノ
 製作 : フレディ・フィールド
(135分)
 テレサ    ダイアン・キートン
 キャサリン  チューズディ・ウエルド
 ジェームズ  ウィリアム・アザードン
 父親     リチャード・カイリー
 トニー     リチャード・ギア
 マーチン   アラン・フェインスタイン
 ゲーリー   トム・べレンジャー
 キャップ   レバー・バートン


 テレサ(ダイアン・キートン)は6歳の時に、ポリオにかかり、その為に片足が不自由になった。
11歳の時に手術を受けて、どうやら満足に歩けるようになった。脊髄側曲症。苦しい手術だった。
いつ再発するかもしれないという不安と同時に、はたして原因はポリオだけだろうかという疑いが、
彼女の心の奥に暗くうずくまり続けていた。自分に未来があるのだろうか。
 短大の若い教授マーチン・エングル(アラン・フェインスタイン)は女子学生のあこがれであった。
テレサはその中でも文学的な才能を認められ、他の学生の答案を整理するアルバイトに採用された。
誰もいない教室で彼から熱烈な愛撫を受ける自分を夢みたりした。
だがマーチンが彼女を女として認めてくれたのは、テレサが自分からアタックしていった時だった。
もちろんマーチンには、妻子があった。初めてのセックス。だがマーチンは、たちまち果てた。
「君が処女だとは思いもかけなかった」テレサとマーチンが別れたのは、それから間もなくの事だった。

 ある日テレサは、姉のキャサリン(チューズディ・ウエルド)の生活を目のあたりにする。
マリファナ、ポルノ・フィルム。自分とは違う世界をただ時の経つのも忘れて夢中になり、夜明け前に帰宅する。
テレサよりもむしろキャサリンの男出入りの激しさに心を悩ましていた父親は、一晩家をあけたテレサを責めた。
父親との口論の末、彼女はついに家を出た。
 テレサは夜の町を渡り歩くようになった。いつか馴染みの酒場が出来た。
“ミスター・グットバー”という、そこには行きずりのセックスを求める孤独な男女が群がっていた。
昼はろうあ学校の教師になる教習所に通い、夜は酒場という、不思議な二重生活が始まった。
 耳の悪い子供たちを教えながら、どうしようもない孤独と絶望に追われるように夜の酒場に身を置くテレサ。

テレサは酒場でトニー(リチャード・ギア)という荒っぽい若者から誘いを受けて、
理性的なマーチンとは対照的な肉体派の男に心をひかれた。
キャサリンが男といるアパートの階下の部屋で彼女はトニーとの激しいセックスを味わった。
セックスと麻薬ー生まれて初めての陶酔に浸りながらも、トニーの粗暴さに心の寒いものを感じた。
酒場で黒人から売りつけられた麻薬の使い方を教えてくれたのもトニーだった。
 学校で特に目をかけていた黒人の少女エミーを追って黒人街へ行った時、
エミーの母親が生活補助金のことで若い民生局員と、激しく言い争っていた。
 そのジェームス(ウイリアム・アザートン)という若者は、ひと目で彼女にひきつけられたらしく、
自分の車でテレサをアパートまで送った。
一時は、カトリックの神父になろうとしただけに、ひどくまじめで清潔な青年だった。

トニーとの何度かの交渉のあと、不安を感じたテレサは医者の所へ行き 不妊手術を頼んだ。
たえず悩まされている、血の暗い影がそうしたのだろうか。
その間も彼女は何かにおわれるように、酒場通いを続けていた。
トニーの会うたびに、その余りの身勝手さを憎みながらも、セックスの誘惑に溺れ続けていたが、
ついに耐え切れず、はっきり絶縁を宣言した。
 テレサは幻覚におびえる事あった。
特にコカインに対しては極端で、麻薬所持の事で警察に捕まり、職を失うという夢をみるのであった。

 一人暮らしのになっての最初のクリスマスがやってきた。
ジェームズは、贈物を持って訪問し テレサは彼を連れて、久しぶりに実家へ帰った。
 まじめな感じの彼に両親はひどく喜んで歓迎したが、それがかえってテレサの気持ちを冷たくした。
その晩、彼女はアパートでジェームズに挑戦した。
それに応じながらも彼が避妊具を用意しているのを知って、腹をかかえて笑い、
なおさら気持ちが冷えて行くのを感じるのだった。

酒場で拾った最後の男、ゲーリー(トム・べレンジャー)は一文なしで田舎から来て、
女性型のゲイ趣味の中年男に文字通り囲われていた。
 テレサの誘いに応じてアパートへ行った彼は、彼女のヒモになる事で新しい境界が開ける望みを持ったが、
その肉体は女性に対して反応を示さなかった。
あざ笑うテレサに、ゲーリーは狂った。殴りつけ、血まみれになった女の姿にようやく彼の男性が蘇えった。
いついか右手にナイフを握っていた。
テレサの肉体を犯しながら、そのナイフは彼女の胸を刺し続けた。
童女のように安らかな微笑をたたえながらテレサは永遠の闇に沈んでいった・・・。


ジュディス・ロスナーというアメリカの女性ジャーナリストが新聞の三面記事にヒントを得て書いた原作。
大都会にひとりで生きる女の疎外感と孤独が哀しい自己破滅と凄惨な死を招いたドラマである。
 幼い日に、小児麻痺の治療で長いこと床についた過去、その時の傷あとは、
今でも背中にくっきりと残って彼女を苦しめていた。
男から男へ渡り歩く美しい姉、怒鳴り散らすだけの父におどおどと従う母。
なにもかもが うとましいが、それらの事と彼女の行動はほとんど関係無い。
自分の責任に於いて男を漁り、一人の女として生きているのだから・・・
 こんな女を どうして不道徳と決め付けられよう。
彼女はこれ以外に自分の孤独が癒される道はないと信じて毎夜シングル・バーへ。
不道徳というより ひたむきに生きた女という方が当たっているのでは?
 テレサの死は、孤独が招いた不運だった・・・




本作でダイアン・キートンが演ずるのは、夜な夜なバーに出没し、男あさりをする聴覚障害児の学校の教師役です。
古い価値観を笑い飛ばし、さらに新しい動きに抹殺されたフリーセックス信者。
幼少期にポリオが原因で背骨が湾曲したけれども、
その後外科手術を受けて歩けるようになったテレサ(ダイアン・キートン)は、
実は病気は後天的なものではなく、家系的な遺伝病であると感じています。
さらに、病気がいつ再発するかも知れないと、死の恐怖に脅えています。
生と性は根底では同一のものであり、ウーマンリブの時代の中で、
彼女が生への不安を性で解消する方向へ向かったのはごく当たり前のことといえましょう。
不妊手術までして、性の開放を享受しようとする彼女の目には、
トニー(リチャード・ギア)のようなふらふら生きているジゴロのような男は気が許せるものの、
セックスの時にコンドームをつけるような古い倫理観のジェームズは、唾棄すべきものに映ります。
ジェームズの古くさい(と彼女が感じた)倫理観は、テレサの父親や母親の倫理観と同じ類いのものであり、
コンドームをつけたジェームズの姿は、テレサの目には嫌悪している父親とダブって見えたに違いありません。

古き良きアメリカが音を立てて崩れ去った1970年代の新しい倫理観を持ったテレサでしたが、
皮肉なことに彼女は、女性の解放のはるか後の時代、つい最近になってようやく開放されたホモセクシャルという、
さらに新しい倫理観の前に命を落とします。
このサイクルは、まるで、恐竜が亡び代わりにほ乳類が繁栄した生物の進化の過程を見るようです。
テレサは、時代のうねりの中で、乱気流に飛び乗り、うまく乗りこなしているか見え、
あっという間にずり落ちて死んだと言えるのではないでしょうか。
(星の数だけの映画レビューより)


昼はろうあ学校の教師、夜は街のシングルバーで男を誘って孤独をいやすテレサ。
母との関係から影を落とし始めた歪んだ心理。
自分が見出せず、自己の表現方法を持たない苦悶から
自己の存在確認をセックスでしか確認できない悲哀を描いたセンセーショナルな問題作。
ラストシーンは映像的にもショッキング。

私がこの映画を見たのは偶然でした。
その頃、学生で一人暮らしをしてまして、その日はなんか寝付けなくてテレビをつけたんです。
布団の中で横になりながらテレビの深夜放送でこの映画を見てしまった・・・

そのラストシーンは私の眠気を吹っ飛ばすかのショッキングな結末だった。
ホラー映画と呼ばれる恐怖映画は数々あれど、これほど長年にわたって私を怖がらせている映画はそうそうない。
私がこの映画を観たのはこの時だけです。
暗くて悲惨で救われない映画ですが、もう一度観たいと思う映画です。

かけだしのリチャード・ギア(写真)やトム・ベレンジャーがチョい役で出ているのも見どころのひとつと思う。

もともとダイアン・キートンは好きだったが、彼女はウッディ・アレンと組んだ「アニー・ホール」が有名なので、
この映画は彼女の出演映画の中でもあまり知られていないタイトルだと思う。
アニー・ホールも77年と同じ年の公開だからだろうか・・・
しかもアニー・ホールでアカデミー主演女優賞を受賞してしまったし。


「ア二ーホール」とほぼ同時期に公開された2作品。「ミスター・グッドバーを探して」の彼女も私は好きだ。
彼女が演ずる役柄は、基本的に知的な女性が多い。
本作のような役柄を演じている映画はほかに見当たらない・・・。

映画のの結末は悲しすぎたが、その誰にでも起こりうるあたりが、私の気にかかっている点なのだと思う。
この映画を見て衝撃を受けたのなら、これを教訓にするべきなのであろうが、
私もなんだかグッドバーに近づいているようで怖くなる今日この頃だ・・・
シングルバー。男達。コカイン。教師。若い独身女性。薄暗いアパート・・・
私たちを取り巻く環境とさほど変わらないではないか。
大都会の片隅にあるアパートの一室。精神と性の欲望が交差する幻想の世界。
孤独には孤独の連鎖が付きまとっているように思えて、「ミスター・グッドバーを探して」は、
現実味を帯びて迫るものを感じる・・・。


テレサには自ら“性のモラル”の殻を破ることは出来なかったが、
91年作品「恋のためらい・フランキー&ジョ二ー」(アル・パチーノ主演)では
同じような殻を持つ孤独な男女が出会い、癒されていくハッピーエンドの映画である。


(2002年10月記)