
十二人の怒れる男
「勇気」
12ANGRY MEN 1957年
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製作 :ヘンリー・フォンダ
監督 :シドニー・ルメット
脚本/原作 :レジナルド・ローズ
出演 :ヘンリー・フォンダ / リー・J・コップ
エド・べグリー / E・J・マーシャル
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ベルリン映画祭金熊賞
(95分)
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陪審員が評決をするために陪審員室に入る。それは父親殺しであった。
その怯えた少年の顔が冒頭一瞬映る・・・。
父親殺しの容疑の若者に対する判決は、12人の陪審員の評決による。
11人は有罪に投票するが、たったひとり希薄な証拠に疑問を持った男が無罪を主張する。
彼らの白熱した議論と説得の模様を追い続ける密室劇。
緊迫した数時間の後、ついに全員一致で無罪の評決に達する・・・。

名前も職業も知らない男たちが取りあえず、陪審員の番号順に座る事になる。
この裁判に飽き飽きしている。そして皆これは有罪だろうという思いがある。
圧倒的に検事側の主張が通っていたと思われる。
そして第一番の男が評決を番号順に訊ねる。『有罪』その言葉が続く。すると『無罪』という声が上がる。
一人だけであった。一人の男が『必ずいるんだよな。こういうヤツが』と呆れかえる。
その一人、無罪と言った男にもう一人が訊ねる。
『あなた本当に無罪と思っているのですか?』
『いや、それは判らない。しかしこれで私が有罪と言ったら。一人の少年が死刑台に送られる事になる。
少し話し合いませんか?』
そしてこの物語が始まる。陪審員はあらゆる階層の人の集まりである。色々な意見が出る。
この少年の劣悪な環境から現在までの話が出る。決してまともとはいえない。人殺しもありうる環境である。
その先入観から有罪と思う者もいる。
しかし、ここはその過去の悪行を語る所ではない。
この事件そのものが行われた事に絞って討論しなければならない。
それは恐ろしく難しい話である。検事側はこれでもかとこの少年の悪行を主張する。
あくまで死刑ありきの主張である。皆それを散々聞かされているのである。どうしても無罪とは思えなくなる。
そこが陪審員制度の盲点でもある。
この少年はその事件の直前に父親に向かって『殺してやる!』と言って外へ出る。それは事実であった。
しかしそれは売り言葉に買い言葉では無かったか・・・?
この少年はそんな言葉を日常茶飯に使っているのでは・・・?
この少年には何一つ有利な反証が無い。
そして殺害時、高架線を通した向こう側のビルに住んでいる中年の女性がその犯行を見たという証言が決定的と思われた。
・・・そんな中、陪審員の中に父子との確執がある者もいた。
皆、悪気は無い。先入観に囚われているのだ。
この結果がどうなるのか。その手に汗握る展開をこの部屋の中だけで描かれている・・・。


アメリカ特有の陪審員制の危うさを改めて感じる。
誰が、犯人かは問題ではない。
少年が犯人か、そうでないか。有罪であれば電気椅子送りとなる。
この重要な局面にもかかわらず、陪審員制度での人間が人間を裁くことが軽んじられている。
第8陪審員(ヘンリー・フォンダ)が疑問を持たなければ、いや、疑問を口にしなければ、
いや、主張しなければ、貫かねば・・・この少年は電気椅子に送られたはず・・・
12人はお互いを番号で呼び合い、たったひとりの勇気ある主張が11人を説得した。
ディスカッションのみの密室劇が見るものを息もつかせないほど、劇的である。
実際問題、映画のように冤罪になりかけて、救われた人がいるだろうか・・・
いや、いや、勇気はそうそう転がってるもんじゃない。
信念と勇気。正義と責任感。人間愛。
第8陪審員は少年を救いたかっただけではないのだ。
自分の信念を自分への責任において貫きたかったのだと思う。
前提には少年へ人間愛があったのかもしれないが。
結果的には少年は救われたわけだし・・・
ひとりで11人に挑む勇気と正義感に感動する。
ラストシーンは、夜明けまで粘って少年の無罪を主張し11人の心を揺さぶる緊迫した経過とは対照的だ。
お互い本名も知らない、番号で呼び合う仲間が評決を終えて裁判所を出て、それぞれが家路につく。
何事もなかったかのように、さりげなく構えがない。
このラストシーンがこの映画唯一のアウトドアシーンだ。

ヘンリーフォンダ主演、‘怒り’つながりで 1940年「怒りの葡萄」もよかった。
(2002年12月記)


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